tohokuaikiのチラシの裏

技術的ネタとか。

世代間戦争とか、世代で分けると分かりやすいけど本質的ではない

http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/efda3403cd51b3f94af6cb3c8731802aのコメント欄読んでて、団塊の世代に対して憤ってたり「最近の若者は」的意見があったりで。

だけど、世代で分けることに分けること以上の何の意味があるかって、無くって。

逆に、それ以外の副作用・・・・「最近の若いもんは」とか「団塊の世代の無責任さ」とかそういうレッテルを貼ることによる無意味な対立を煽っているだけな気がする。

たとえば、今のゆとり世代を赤ん坊の状態でそのままごそっと1940年代に持っていったら安保闘争は起こらなかったんだろうか?

社会保障や年金のシステムが変わったんだろうか?

そんなことないよね。

岸信介角栄がいなかったら、彼らに代わる誰かが生まれて、それはおそらく全体としては同じ方向に向かっていくことになったんだろう。

だいたい、日本に住んでるヤマト民族が50年やそこらで能力や性質に変化が出るとは思えない。

団塊の(とそのちょっと前の)世代がなした高度経済成長時代だって、100年前に明治政府もやってるし、500年前には30年で世界一の鉄砲保有国になったり、まぁその時代時代で驚くべきことをやったのは1度や2度ではない。


別に、その時代に産まれたのは偶然で、それを成したのはその時代にベストだと思った方法でやった結果だけであって。

それを「団塊の世代は・・・」とか世代で分けるのはつくづく意味がないと思う。

逆もしかりで、団塊の世代をそのまま現代に持ってきたらニートも同じ数だけ発生する社会になるだろう。


なんていうか、「たまたまその時代に産まれただけ」というところに固執する必要はないわけで、だからそれはただの運であって、団塊の世代はやっぱりラッキーだったということで、それを踏まえず「最近の若いもんは」っていう人を見ると、なんでそんなに自信があるんだろうと思うし、バカなんじゃないかと思う。

逆に、これからの搾取される世代だって、「自分がニートなのは時代の要請」くらいに思ってそんなに卑屈になることはないんじゃないかって。


そのうえで、「世代による能力や、結果の違いなんてありゃしなかった」って謙虚に思うところから(団塊の世代にはくれぐれも謙虚に思って欲しいんだけど)始めないと問題に共闘して取り組めないんじゃないか。

そうじゃないと、無意味な世代間戦争とかの議論に労力を取られて終わってしまう。