tohokuaikiのチラシの裏

技術的ネタとか。

死ぬ準備をする(1)

最近、変だなーって思ってることがあって。それは下記の事件が発端なんだけど。
救急医療崩壊 マスコミは「大阪東南部焦土作戦」遂行中(その2)読売も参戦 85歳87歳92歳の心肺停止って救命可能なの? これはマスコミの魔女狩り報道だ: 天漢日乗

なんていうか、

  • 自分は死にたくない
  • 身近な人の死を受け入れたくない
  • 死ぬのは自分の責任じゃない

っていうのがあるんじゃないかな。

「そりゃ、死にたくないよ」

っていうのは当然だと思う。だけど、死なないわけには行かないんだからどこかで折り合いを付ける。

うーん。「生きてる」ってことは「死なない」ってことの裏返しだから、

自分は安全で死なないんだ

って思うことは、生きてるって実感も乏しいことになるのかな。


Appleの創業者、スティーブ・ジョブスの言葉で、

大前研一「ニュースの視点」Blog

私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。

「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今
日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。

それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、
そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。

 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。

これはすごく微妙な言葉で、ともすれば「自分のやりたいことをやればいい」って嫁もするんだけどそうじゃない。それが自分の悔いの無いことなのかっていう質問を毎日喉元に突きつけて日々を送れってことだよね。「今日は、スキーに行きたくて、明日はボウリングをしたい。自分のしたいことをしたから悔いが無い」ってそんなことじゃない。そんなことがしたいことなのかって。


ただ、したいことっていうのは時代にもよるし、戦後には堀場雅夫

あぁ、もう白い飯を腹いっぱい食わせてくれれば、なんだってする

って思ったそうで、もちろん今はそう思わないだろうし。しかも、今おなかいっぱい食べられるから幸せかっていうとそうでもないだろう。


じゃあ、もっとお金持ちになるとか有名になるとか・・・。

なってる過程にこそ充実感があるのだとすると、平和鳥みたいな永遠のこっくりさんだけど、そういうもんかとも思う。

そこで重要なのは「幸せの閾値を下げる」ってことなんじゃないかな。自分は割りと(というか、若かったからかもしれない10年前とかは)ガツガツと「生き甲斐とは!」とか考えてたんだけど、というか就職活動は1999年の絶氷河期だったこともあり、考えさせられたりだったけど。

こういう配偶者がいると、自分も幸せな気分になる

だけど、今の妻の幸せの閾値の低さを見てると「あぁ。それが幸せなのかな」って気になる。こういうのって、実は本人だけじゃなくて回りも幸せにしてるんだよね。
「妻が幸せだって言ってくれるんだったら、幸せだよな」
って思えるから。専業主婦をして、子供を見てるだけなんだけど「働かなくてご飯を食べられるのが幸せ」らしい。まぁ、親との同居も無いしな。確かに恵まれた環境ではあると思う。

だけど、自分は専業主夫やっていけるかってそうではないしな。掃除や選択を毎日するのは大したものだと思うよ。自分はできないし。

だけど、逆に妻は年収1000万は到底難しいけど、自分ならかなり可能性はあるからな。その辺のすみわけは上手くできてる。


結局、死ねるっていうのは

どれだけこの「幸せだ」って思える瞬間を積み重ねたかに依るんじゃないかと思うんだな。92歳の親を「たらいまわしで殺された」って毎日新聞の記者が思うのは(会社の方針はあれど)、「92歳まで生きたから幸せを積み重ねたじゃないか」って思えない状況なんだろうな。たぶん、幸せじゃないんだと思う。新聞記者って。

飯を食ってクソをして寝ることが幸せの基本

普通にさ、飯を美味しく食って健康に排便してって生活を幸せだって思えたら勝ち組だと思うんだよね。勝ち組ってすら思わないよな。そもそも。

だから、自分は飯を食うときは不機嫌では居たくないんだな。

クソをした後に「あぁ、拭くのが面倒」とか思いたくないからウォシュレットは欠かせない。

あとは、もう少し早く寝られるような生活を手に入れられば完璧。